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三々九手挟式(さんさんくてばさみしき)は、正月4日の弓始式のときに行う、
厳格な弓の儀式でした。三々九手挟式の後に振々(ぶりぶり)の的を射ることは、
文武の道を統べる道であるとされています。また、三々九をよく得心すれば、
大的や百々手もよく明らかであると言われるほど、奥深いものです。

射手から的までは通常9杖(後述。約20m)としています。
射手が前弓(まえゆみ)・後弓(あとゆみ)の2組に分かれ、各組ごとに各自一手の矢を順番に射た後、
各々の大将が一手(ひとて)ずつ交互に射て、大将の1本の的中を2本として数え合計的中数を競います。 
前弓は四半(八寸角)、後弓が九半(九寸角)の的を用いるのが正式とされています。

< 繰り立ち >

前弓・後弓の射手は同数ですが、大将射手を除いて三名以下の場合には前弓・後弓の射手が一人ずつ弓を引きます。 
四名以上の場合には、前弓の射手全員が射蓆に立ち、先頭の射手が弓を引き、
引き終わると最後尾に付く「繰り立ち」という作法を行います。 

< 神頭矢 >

矢は一手神頭矢(じんとうや)を用い、白箆に交ぜ羽(大鳥を走り羽、白尾を頬摺、鷹羽を向い羽)とするとされています。

< 弓 >

弓は白木、白弦の弓とされています。

射手から的までの距離は杖(並寸の張り弓の長さ。2.21m)で測り次のいずれかとします。

◆ 的革から射蓆まで11杖とし2杖寄せて9杖(約20m)

◆ 的革から射蓆まで9杖とし1杖半寄せて7杖半(約16.5m)

九半も四半も板目が右上から左下に流れるように串に挟み、串を地面に差して立てて的とします。
このとき、串の太さ五分、長さ一尺一寸、挟む部分の切れ込み一寸、地中二寸とすべて的の規格が定まっています。

射手が弓を引くところには射蓆(いむしろ)を敷き、射蓆の前方には砂で盛った数塚(かずづか)を作ります。
この数塚は、古来勝負は日記で知ることとして数塚を築いても的中数を指さなかったようですが
、現在は的中数の串を各自が差すことで、勝敗の行方をわかりやすく示しています。


現在も射手日記が的中の正式記録として残ります。
射手日記には、開催日、場所、諸役の氏名のほか、射手の氏名と本数分の○印が書かれており、的中す
ると記録(日記または祐筆)が○を記し、外れると●のように墨で黒く塗りつぶします。

射手は敷皮の上に的に足裏を向けて半捉座にて座り、介添はその後方に控えます。
介添は射手に本来は二人、最低一人ずつ付くことになっています。

古来射手は前弓・後弓3名ずつが大的式のように前弓・後弓一人ずつ交代に3度(3名×三手=18射)引いて勝負を競ったようですが、
現在は各数名が一手ずつ引き、最後に前弓と後弓の大将が1本を2本と数えた一手を引いて勝負を争います。



また、森戸神社は、吾妻鏡にあるように、寿永3年5月19日に鎌倉武士の主である西国武士 平頼盛(一篠能保)と
逗子葉山の森戸海岸に舟遊びで立ち寄った際に、東国武士にしか出来ない武芸であるとして、
小笠懸を初めて披露した場所でもあります。
そしてまた近年、「丸物(まるもの)」と呼ばれる古来の弓の儀式を行っているのも当会の特徴で
、御宗家より当会が許可を頂いて執行されているものです。




         
         
         





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