小笠原流歩射

源頼朝が富士の巻狩を行った際に家来が獲物をたびたび外すので、家臣に何故なのか聞いたところ、武田小笠原の面々にお聞き下さいと答えました。そこで、武田小笠原を召して尋ねたところ、両家は相談の上、草を集めて鹿のかたちを作り稽古させました。これが草鹿の起こりと言われています。

このことから、元々は歩射と騎射で稽古のために行ったものでしたが、その後、歩射の行事として残ったもののようです。

吾妻鏡によると、1192年 (建久3年 壬子)8月9日(己酉)巳の刻に男子(後の源実朝)が出生し、同月20日(庚申)、将軍家御産所において、両親が健在の6名の射手を召して草鹿の勝負が有ったことが記述されています。
   一番 梶原左衛門尉景季   比企彌四郎時員
   二番 三浦兵衛尉義村    同太郎
   三番 千葉兵衛尉常秀    梶原兵衛尉朝景(刑部の丞の子)

また、1237年(嘉禎三年 丁酉)7月19日(甲午)には、8月の放生会で北條五郎時頼が流鏑馬を射る(16日)ので、初めて鶴岡の馬場で行うのにあたり、北條泰時がサポート役で来て海野左衛門尉幸氏を招いて詳細を語り、また佐藤兵衛尉憲清入道〈西行〉が流鏑馬の矢を挟むことについて意見を述べ、下河邊行平、工藤景光、兩庄司、和田義盛、望月重隆、藤澤清親、三金吾、并諏方大夫盛隆、愛甲三郎季隆などが感心したことから弓談義になり、流鏑馬、笠懸などの故実を論じながら、草鹿の話にも及んだと記されています。
錚々たるメンバーで、どんな弓馬の話が出たのか、興味深いところです。

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三々九手挟式
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草鹿式とは>

現在行われている草鹿式は、的場や作法は三々九手挟式とほぼ同じですが、元来は競技です。

射手の体配、弦音や矢飛び、的中有無、的中した後の矢の落ち着き所、および的中してから矢が落ち着くまでの経緯といった点を総合的に判断して、奉行が的中と認めたものが「当たり」となります。判断に当たっては、古式ゆかしい「候詞(そうろうことば)」で奉行と射手との間に問答が行われ、射手が的中箇所を間違えて答えたり、作法にのっとった問答ができないと「外れ」と判断されます。武士の威信を懸けて競技に臨み、奉行と問答を行い、的中を争います。